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東京地方裁判所 平成5年(ワ)22934号 判決

原告

甲野花子

甲野一郎

甲野二郎

右三名訴訟代理人弁護士

山本眞養

右訴訟復代理人弁護士

西田育代司

被告

防衛庁共済組合

右代表者防衛庁長官

衛藤征士郎

右訴訟代理人弁護士

久利雅宣

主文

一  被告は、原告甲野花子に対し一三二〇万円、原告甲野一郎及び原告甲野二郎各自に対し六六〇万円並びにこれらに対する平成六年二月一九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求はいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その二を被告の負担とし、その余は原告らの負担とする。

四  この判決は、第一項につき仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)に対し、三二六二万七一〇八円、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)及び原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。)各自に対し一六三一万三五五四円並びにこれらに対する平成六年二月一九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  原告らは、原告らの被相続人甲野太郎(以下「太郎」という。)が、宿泊客として被告の運営管理するホテルに宿泊していた際、脳挫傷を起こして意識障害が生じた状態でトイレで倒れている等の異常な状況があったにもかかわらず、被告の従業員らが速やかに医師による治療を受けさせる等適切な処置を採らず、これにより太郎を死に至らしめたとして、宿泊契約上の安全配慮義務(以下「安全配慮義務」という。)違反を理由に、被告に対し、債務不履行に基づく損害賠償を請求している。

二  争いのない事実

1  原告花子は太郎の配偶者、原告一郎及び原告二郎は太郎の子であった(なお太郎の子で法定相続人たる乙田春子は相続放棄している。甲一八)。被告は、防衛庁の職員で組織され、組合員及びその家族等の福利厚生のための施設として、東京都新宿区市ケ谷本町四番一号所在の市ケ谷会館、通称グランドヒル市ケ谷(以下「本件ホテル」という。)をホテル・結婚式場等として運営管理していた。相馬康二(以下「相馬」という。)は平成四年一一月二六日から同月二七日の後記事件当時、本件ホテル新館当直フロント係として勤務していた被告の職員であり、小宮信七(以下「小宮」という。)は、右当時日興美装工業株式会社(以下「日興美装」という。)の社員で、被告と同社との契約により被告に派遣されて本件ホテル本館当直フロント係として勤務していた者であり、斎藤清美(以下「斎藤」という。)は右当時本件ホテルの当直長として勤務していた被告の職員であり、長嶺清一(以下「長嶺」という。)は、右当時日本総合管理株式会社(以下「日本総合管理」という。)の社員で、被告と同社の警備委託契約により本件ホテル本館の警備員として勤務していた者であった。

2  太郎は、平成四年一一月二六日午後五時一七分(以下、同時刻から同月二七日午前八時二六分までの時刻については日付けを省略して時刻のみを記載する。)ころ、本件ホテル本館フロントで宿泊の申込みをし、本件ホテル本館五階の一五五四号室(洋室定員三名、バス・トイレなし。〔以下「本件客室」という。〕)をシングルで使用することとする宿泊契約を被告と締結した。

3  太郎は、午後六時ころ本件ホテル本館地下一階所在の和風レストランにおいてギョウザ及びロースカツ定食を採り、ビール中ジョッキ一杯及び日本酒1.8合を飲んだ。

4  午後八時三〇分ころ(以下「第一発見時」という。)、本件ホテルの宿泊客であった竹島武郎(以下「竹島」という。)が、本館フロントに居た当直フロント係の小宮に対し、本館五階の男子トイレ(以下「第一発見場所」という。)の床に人が倒れている旨を告げた。

小宮は、第一発見場所の床に太郎がうつぶせに近い状態で横向きに倒れているのを見て、声を掛けたところ返答があったので、客室に運ぶため警備員の長嶺を呼びに行き、長嶺と共に第一発見場所に戻った。

長嶺と小宮は、太郎の頭と脚を持ち上げて、約一〇メートル離れた本件客室へ運び、ベッドに寝かせて退室した。その際、巡回時に太郎の様子を見られるように、本件客室のオートロックドアがロックしないようにフックを掛けて、室内灯は点灯したままにした。

5  午前〇時二〇分ころ(以下「第二発見時」という。)、一五六六号室に宿泊していた客の長谷川洋峯(以下「長谷川」という。)から、フロントの小宮に対し、本館五階の廊下の隅に男性が座っている旨連絡があった。小宮が本館五階の廊下へ行くと、浴衣姿の太郎が一五六七号室前の廊下(以下「第二発見場所」という。)に、裸足のまま両足を広げて投げ出した格好で座っていた。小宮は、太郎に呼び掛けたところ返答したので、肩を貸して約二〇メートル離れた本件客室へ歩かせてベッドに寝かせた。本件客室の室内入口付近には糞のついたパンツが脱ぎ置かれ、床、太郎の浴衣の裾、ベッドのシーツにも同様の汚れが付着していた。小宮は相馬に太郎の様子と室内の様子を報告した。

6  午前〇時三〇分ころ、本件ホテル新館の警備員山本律雄(以下「山本」という。)が本件客室に入り太郎の様子を見たところ、ベッドのシーツと毛布が床に落ち、太郎は床に腰を下ろしてライティングデスクの下方を向いて捜し物をしているかのような格好をしていた。山本は「早く寝て下さい」と声を掛けた。

7  午前〇時四〇分ころ、相馬が本件客室へ入って汚れたものを取り除いた。そのとき太郎は浴衣を脱いで下着姿で床の上にシーツと毛布を敷いて横向きで寝ている状態であった。

8  午前二時ころには山本が、午前四時ころには長嶺が定期巡回の際に本件客室のドアを開けて室内を見たところ、太郎は下着姿で毛布を掛けず床に仰向けで寝ていた。

9  午前六時三〇分ころ、長嶺が定期巡回の際に本件客室のドアを開けて室内を見たところ、太郎が口から嘔吐物を流している状態であった。当直長斎藤と相馬が報告を受けて太郎の様子を見ると、身体が震えて呼吸が乱れ、咳をして、口の回りに血や嘔吐物が付着し、声を掛けても応答がなかった。

10  斎藤らが救急車を要請し、太郎は、午前七時一〇分ころ東京女子医科大学病院(以下「東京女子医大病院」という。)に運ばれて直ちに治療を受けたが、意識不明のまま翌一一月二八日午後二時四分に死亡した。

太郎の直接死因は脳挫傷であり、解剖の結果、後頭部やや右側の鶏卵大の紫赤色皮膚変色巣に一致し、人字縫合の離開を伴い、後頭骨の中央よりやや右で大頭後孔縁から右頭頂骨を通り右側頭骨に至る骨折、急性硬膜下出血を伴う両側前頭葉及び側頭葉先端の脳挫傷等が診断された。

三  原告の主張

1  安全配慮義務1

(一) ホテル業を営む者は、宿泊契約上有償で宿泊施設の利用等のサービスを提供する本来的な義務を負うとともに、宿泊客が一定時間その宿泊施設に身体を預けるところから、宿泊施設内で宿泊客に事故があった際の宿泊客の生命身体の危険の増悪を回避抑制すべき必要十分な救急措置を講ずべき安全配慮義務を信義則上付随的に負担している。

そして、宿泊施設には健常者のみならず持病がある者や飲酒者も宿泊することから、宿泊者自身では医療専門家による治療の必要の有無を判断できない場合もあることが予測される。

したがって、安全配慮義務の内容として、被告は、宿泊客について医療専門家の判断を仰ぐべき状況がある場合には、救急車を要請するなど医療専門家の判断を仰ぐ措置を採るべき義務がある。

(二) 第一発見時の被告従業員らの過失

(1) 太郎は、第一発見時、通常宿泊者が寝るような場所でないトイレにズボンのチャックを開けて性器を露出したままルームキーや眼鏡等を床に落として陶製のタイル張りの床に倒れており、第一発見場所は宴会場の近くではない宿泊者用のトイレであり、太郎には頭部の瘤や顔面のかすり傷等外傷がある状況で、かつ、自発的に発言ができず自力で立って本件客室へ帰ることができない状況であったから、小宮、長嶺、相馬の被告従業員らは、太郎が何らかの原因によりトイレで転倒し頭を打った可能性があることを容易に推測でき、これを予見すべきであったし、そうでないとしても、単なる酒酔いでなく何らかの病的な異常を生じていないかを疑い、医師等の医療専門家の診断及び治療を受ける必要があることを予見すべきであった。しかるに、小宮は太郎が酒に酔って寝込んだと判断して本件客室内に放置し、相馬は小宮から知らせを受けたのみでそれ以上の対応をせず、長嶺は太郎に対し倒れた原因や負傷の有無等を尋ねもせず、いずれも直ちに救急車の出動要請をする措置を採らなかった。

(2) 被告は、太郎の状態は酒酔いと識別できないから、救急車の出動要請をしなかったとしても過失はない旨反論するが、仮に酒酔いであっても、本件のように倒れたところを見た者がいないとか傷がある等のその他の状況を総合すれば、医師等の専門家の診断及び治療が必要な場合であることは予見できた。

(三) 被告従業員らの第二発見時の過失

第二発見時、太郎は第一発見時より約四時間経過した後であるにもかかわらず、その身体の挙動に異常があり、着衣の乱れや客室内の脱糞等の異常があったのだから、太郎の症状が単なる酒酔いの症状とは異なり病的な異常であることを容易に認識し得たので、医師等の専門家の診断及び治療を受ける必要があることを容易に知り得べきであったところ、小宮も相馬も太郎を本件客室内に放置し、救急車の出動を要請する措置を採らなかった。

(四) 小宮、相馬、長嶺らは被告の従業員であり、これらの者が宿泊者の状態について判断を誤った過失は、被告の安全配慮義務についての履行補助者の過失であるから、被告の過失と同視される。

2  安全配慮義務2(管理体制の不備)

(一) 被告は、宿泊客において医療専門家の判断を仰ぐべき状況がある場合には、宿泊客に医療専門家の診察を受けさせる等の措置を採ることができる管理体制を整えるべき義務がある。

それには、医療専門家による判断を仰ぐべき状況について、従業員に対し、傷病者への対応について、救護等の研修をしたり、具体的な対応方法を指示する措置を採るべきである。また、医療専門家の判断を仰ぐべきか否かを適切に判断できる者を配置すべき義務がある。また、被告は、右判断及び措置を行う責任者を決め、他の従業員らの責任者に対する報告義務等を課す体制を整える義務がある。

(二) 被告は、宿泊客において医療専門家の判断を仰ぐべき状況がある場合には、宿泊客に医療専門家の診察を受けさせる等の措置を採ることができる管理体制を整えていなかった。すなわち、医療専門家による判断を仰ぐべき状況について、従業員向けのマニュアルには何ら判断の基準を示す記載がなく、医療専門家の判断を仰ぐべき場合についての研修がされていなかった。また、医療専門家の判断を仰ぐべきか否かを適切に判断できる者を配置していなかった。さらに、被告は、小宮、相馬、長嶺ら当直をしていた被告の従業員のうち右判断及び措置を行う責任者を決めておらず、無責任な対応に終始していた。

その結果、小宮、相馬、長嶺らの被告の従業員は、前示1(二)(三)のとおり、太郎が医師等の医療専門家により診断・治療を要する場合であると予見すべき状態であったにもかかわらず、救急車を要請する措置を採らなかった。被告が、小宮、相馬、長嶺らの当直をしていた従業員につき右判断及び措置を行う責任者を決めたり、他の従業員らの責任者に対する報告義務等を課したりする管理体制を整えていなかったことにより、小宮は被告の正職員である相馬が救急車を呼ぶかどうかの判断をするものと考えて右措置を採らず、被告の正職員である相馬は異常を発見すれば誰でも救急車要請を行い得るからその判断は小宮に委ねられていると考えて右措置を採らなかった。

3  太郎の延命可能性、社会復帰可能性

脳挫傷は、受傷後早期に治療を受けなければ症状が悪化して死に至るが、早期に治療すれば回復する可能性は高く、受傷直後の状態が軽度で意識混濁がなく歩行が可能であれば、社会復帰が可能な場合もある。したがって、第一発見時又は第二発見時に直ちに救急車を要請して太郎に医療専門家による治療を受けさせる措置を講じていれば、太郎は死亡することなく延命していた。また、第一発見時であれば社会復帰できた可能性が高く、第二発見時でもある程度の社会復帰が可能であった。

4  被告の債務不履行による太郎の損害

(1) 精神的損害 二四〇〇万円

(2) 逸失利益三五三二万四二一七円

太郎は、昭和一〇年五月二〇日生れで長崎大学商業短期大学部を卒業し、死亡当時大村市教育委員会教育次長の職にあり、平成三年の年間所得金額は九五六万四五一五円であっから、定年の六〇歳になった後に初めて来る年度末である平成八年三月末日までは大村市役所の職員として稼働できたのであり、少なくとも右年額の所得を得られた。

そして、六七歳までは平成四年の短大卒の者の全産業同年齢の平均所得五二七万六二〇〇円を得られた。

右各年の収入から中間利息を控除(ライプニッツ方式)すると五〇四六万三一六八円となる。これから生活費相当額として三〇パーセントを控除すると三五三二万四二一七円となる。

(3) 弁護士費用 五九三万円

(1)〜(3)の合計額

六五二五万四二一七円

5  原告花子は右5の損害の二分の一である三二六二万七一〇八円、原告一郎及び原告二郎はそれぞれ四分の一である一六三一万三五五四円を相続し、被告に対し、平成六年二月一八日送達の同年三月一日付け訴え変更申立書によりその支払を請求した。

6  よって、被告に対し、債務不履行に基づく損害賠償として、原告花子は三二六二万七一〇八円、原告一郎及び原告二郎は各一六三一万三五五四円並びにこれらに対する履行の請求をした日の翌日である平成六年二月一九日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

四  被告の反論

1  安全配慮義務1の内容・根拠について

(一) 宿泊契約に基づく安全配慮義務は、消防設備や消火活動に不備があるとか、建物の構造上の危険を放置していたとか、飲食を供する際に食品管理や衛生管理が不十分であるとか、宿泊施設利用の際に必要とされる人的物的諸条件の不備により危険が利用者に及んだ場合に問題となる。太郎が倒れた共同トイレには人が倒れるような物的設備上の不備はなく、太郎が倒れたのは右のような人的物的施設の不備によるものではない。また、太郎が倒れていたのは宿泊者以外でも入れる共同トイレである。

したがって、共同トイレで倒れている太郎にどう対処すべきであったかという問題は、宿泊施設利用の際に必要とされる人的物的諸条件の不備により危険が利用者に及んだ場合には当てはまらない。よって、事務管理に基づく義務であればともかく、安全配慮義務のような宿泊契約上の義務が適用される場面ではない。

(二) また、原告は、宿泊施設には非健常者も宿泊することを理由として、被告は宿泊客がトイレで倒れていた場合、酒に酔って寝込んでしまったのか、又は何らかの病的原因で倒れているかを適切に判断できる者を本件ホテルに配置すべきであった旨主張する。しかし、宿泊施設は医療施設や介護施設ではないのであるから、非健常者は宿泊施設を利用するに当たっては予めその状態をホテル業者に告知し、ホテル業者は、右告知に基づいて施設を提供するか否か、提供するとすればいかなる対応をするかを決めるものであって、当人の告知がなくても非健常者を当然に予想して宿泊施設を提供しているわけではない。また、右のような専門家を配置することは宿泊施設において一般的ではなく、旅館業法にもそのような定めはない。

(三) 最高裁昭和五八年五月二七日判決(民集三七巻四号四七七頁)によれば、「右義務(安全配慮義務)は、国が公務遂行に当たって支配管理する人的及び物的環境から生じうべき危険の防止につい信義則上負担するものであるから、(中略)運転者において道路交通法その他の法令に基づいて当然に負うべきものとされる通常の注意義務は、右安全配慮義務の内容に含まれるものではな」いと判示しているところ、これは、安全配慮義務は使用者が業務遂行のため必要な施設若しくは器具等を設置管理し、又は被用者の勤務条件等を支配管理することに由来するものであるから、業務の遂行が安全にされるように業務管理者として予測し得る危険を排除し得るに足りる人的物的諸条件を整えることに尽き、他の被用者が業務上必要な注意義務を怠らないようにして危険発生を防止すべき義務までを含むものではなく、履行補助者が通常の注意義務を怠った場合には安全配慮義務は負わないとしたものと解すべきである。したがって、仮に第一発見時又は第二発見時に小宮らに通常の注意義務違反があったとしても、安全配慮義務違反を理由に被告が責任を負うものではない。

2  第一発見時について

(一) 第一発見時には太郎が脳挫傷であることを予見すべき状況ではなかった。すなわち、太郎が転倒して頭部に打撃を受けたところを目撃した者はいなかった上、太郎の頭部の瘤は外観から容易に判別できるようなものではなく解剖して初めて判明したものである。また、顔面の傷もすり傷であった。ワイシャツの血の染みも手首付近に数か所ある程度であった。さらに、太郎が第一発見場所で倒れていた際に酒の臭いがしたこと、小宮の問い掛けに「うん、うん」「大丈夫」等と返答したこと、気分が悪いとか頭が痛いとかの意思表示はなかったことから、脳挫傷であることを予見すべき状況ではなかった。また、性器を露出して倒れているとか、自力で立ち上がれないとかの異常な状態は、酒酔いによる意識障害を原因としても見られる状態である。

(二) 原告は、酒酔いであっても、倒れた原因が不明である場合には救急車を要請すべきである等と主張するが、東京消防庁が作成する「防災のてびき」というパンフレットによれば、救急車を利用できる場合として、屋内の事故の場合は「負傷者や急病人がでたときで、医療機関へ搬送する手段がなく、緊急に医療機関へ搬送しなければならないとき」とされており、一方救急車を利用できないものとしては「けが等のない単なる泥酔者」が挙げられている。したがって、脳挫傷であることが不明であった本件では、救急車を要請する場合には当たらない。原告の主張どおりにすれば救急車、救急病院はたちまち機能麻痺になってしまうであろう。

3  第二発見時について

第二発見時の太郎が浴衣姿のまま廊下の床に座っていたこと、客室の床等に脱糞があったこと、浴衣がはだけていたこと、肩を貸さないと歩けなかったこと等の異常な状態は、脳挫傷による意識障害特有の症状ではなく、酒酔いによる意識障害においても見られる症状である。また、太郎は小宮の呼び掛けに応答していること、第一発見時から第二発見時までの間にワイシャツから浴衣に自分で着替えていることからも、太郎が単なる酒酔いでなく医療専門家の診察を要求すべき状態であることは予見できる状況にはなかった。

4  太郎の延命可能性、社会復帰可能性について

太郎は転倒して硬膜下血腫と脳挫傷を起こしているところ、硬膜下血腫と脳挫傷を伴う患者は、早期に治療した場合でもその延命可能性及び社会復帰可能性は極めて低いものである。したがって、被告の措置と太郎の死との間に因果関係はなく、逸失利益も存しない。また、仮に社会復帰の可能性があるにしても、その余命期間は脳挫傷を受けた者のそれを前提にすべきである。

5  過失相殺

仮に被告に責任があるとしても、太郎の脳挫傷は、同人が体調不良であるにもかかわらず飲酒して酒酔い状態となり、トイレで倒れたことによるものであり、太郎としては体調不良の場合には飲酒を控えるべき義務があるのに飲酒して転倒したものであるから、右結果には同人の過失に起因するところが大きい。

五  主要な争点

1  宿泊契約に基づく安全配慮義務の内容

2  第一発見時、太郎について医療専門家の判断を必要とすると予見し得る状況があったといえるか。

3  第二発見時、太郎について医療専門家の判断を必要とすると予見し得る状況があったといえるか。

4  第一発見時又は第二発見時に直ちに医師の診断・治療を受けた場合の太郎の延命可能性及び社会復帰の可能性の有無。社会復帰の可能性がある場合の余命期間。

5  太郎が飲酒したことにつき損害に斟酌すべき過失があるか。

6  損害額

第三  判断

一  前示第二の二の事実及び証拠(甲二の1〜5、三〜七、一〇、一一、一四〜一六、一九、二〇、二四の2、乙一〜三、四の1、2、五、六の1〜3、七、八の1〜3、九、一〇、一三〜一五、一七、一八の1〜3、一九、二〇、二一の1、2、二二、二三、証人小宮信七、同相馬康二、同山口研一郎、原告花子)によれば、以下の事実が認められる(一部争いのない事実を含む)。

1  本件ホテルには、本館と新館があり、本館の一階、地下一階、新館の三階から地下一階にはレストラン、フロント、喫茶室、大小の宴会場、結婚式場等があり、本館の四階から五階、新館の四階から八階が宿泊室になっている。本館地下一階のレストランには一階のフロントの前を通らずに外から出入りが可能であり、地下一階にはエレベーターがあって、宿泊室のある階まで出られるようになっている。また、本館四階及び五階の構造は別紙のとおりであり、本件客室から男子トイレまでは約一〇メートルの距離があった。

本件ホテルでは当直をするフロント係の勤務時間帯は午後三時から翌日の午後一時までとされており、この間は本館に一名、新館に三名をフロント係として配置し、うち新館のフロント係二名は被告の正職員であり、一名は日興美装からの派遣社員であった。派遣社員の当直は午後六時から翌日の午前一〇時までをひとつの勤務時間帯としていた。その外に当直室に被告の正職員一名が配置され、日本総合管理からの派遣社員二名が本館と新館に各一名づつ警備員として配置されるという体勢であった。

平成四年一一月二六日から翌二七日の当直には、本館フロント係に日興美装からの派遣社員の小宮、新館のフロント係に相馬を含む被告の職員二名及び派遣社員一名が、当直室には当直長の斎藤がそれぞれ配置され、本館の保安室に警備員の長嶺、新館の防災センター(保安室)に警備員の山本が配置されていた。

相馬は、平成三年四月にフロント係になり、泥酔者や宿泊者の看護について乙二〇号証のマニュアル(以下「業務マニュアル」という。)と同様の冊子を読むように渡された外、特に研修を受けることはなかった。業務マニュアルには、傷病者の救護等についての記載はなく、「火災・緊急時の対処」として「新館防災センター」又は「本館保安室」に連絡する旨の記載のみがある。小宮は、平成三年六月六日日興美装に入社し、同日から本件ホテルに派遣社員として勤務した。小宮の業務研修としては、日興美装から業務マニュアルを渡された外、日興美装の前任者からの引継ぎと相馬からの指導を受け、過去に救護を要した事案について相馬らが話すという内容のフロント係のミーティングに月一回参加した。その際、救護についての特別な研修は受けなかった。小宮は、被告の職員らから、救急車を呼ぶかどうかの判断として、同伴者がいない場合は、外傷がひどく出血多量、意識不明、呼吸困難等の状況であるときと指示されていたが、小宮としては、特にそのような説明が相馬らからされたわけではないが、最終的に救急車を呼ぶかどうかという判断は、派遣社員ではなく正職員がするものと考えていた。

本件ホテルには医療についての専門的知識を持つ者は配置されておらず、夜間に看護を必要とする宿泊客や泥酔者が出た場合には、警察病院か東京女子医大病院に従業員が電話を掛けて採るべき処置について質問をし、適切な措置を採るようにしていた。

2  午後八時三〇分ころ、本件ホテルの宿泊客竹島が、本件ホテルの本館フロントに居た小宮に対し、第一発見場所(本館五階男子トイレ)に人が倒れている旨知らせた。

小宮が一人で行って見ると、太郎が第一発見場所の陶製のタイル張りの床に、左半身を下にして、男性用便器が並んでいる壁とほぼ平行して横向きに倒れており、眼鏡とルームキーが顔から二、三〇センチメートル離れた床に落ちていた。太郎はワイシャツとズボンを着用して客室用のスリッパを履いており、ズボンの前のファスナーが開いて性器が見える状態であった。ワイシャツの左袖内側に直径三、四ミリメートルの薄い血の染みが二、三か所付着し、太郎の右目の下に小さな擦過傷があり、うっすらと血が滲んでいた外には、目立った外傷や出血はなかった。小宮が「お客様大丈夫ですか」と聞くと、太郎はつぶっていた目をパチパチさせて「うん」と応答し、小宮が続けて「大丈夫ですか」と聞くと「大丈夫だ」と答えた。太郎は一人で起き上がれない状態で、酒の臭いが強くした。小宮は、呼び掛けに返答があり、酒の臭いが強くしたことと手当の必要な外傷や出血が見当たらないことから、太郎は泥酔してトイレで寝ていたのだと判断し、異常なことがあった場合には本件ホテルの上司や保安室に連絡することになっていたため、内線電話を使って当直長斎藤に第一発見場所に宿泊客の男性が酔っ払って倒れていて、意識の確認をすると大丈夫だという返答があった旨伝えたところ、斎藤から何か変わったところがあったら知らせるようにとの指示を受けた。小宮は、太郎が一人で起き上がれない状態で客室へ運ぶのに手助けが必要なことから、保安室へ長嶺を呼びに行き、長嶺と共に第一発見場所に戻った。

長嶺と小宮は、再度太郎に「大丈夫ですか」と呼び掛けたところ「大丈夫」との返答があったので、太郎を客室に運び入れることとし、太郎の頭と脚を持ち上げて、約一〇メートル離れた本件客室へ運び、三つあるベッドの真ん中にワイシャツとズボン姿のまま寝かせて退室した。小宮は、太郎が酔ったまま客室を汚すような事態に備えて、巡回時に太郎の様子を見られるようにドアをロックしないようにし、室内灯は点灯したままにした。その後、小宮から報告を受けた当直長斎藤は、本館へ来て、長嶺に対し、巡回の際に本件客室を見回るように指示した。また、小宮は、相馬に内線電話で第一発見場所に倒れていた泥酔客を警備員と二人で本件客室へ運び込んだこと、ドアをロックしていないことを報告すると、相馬は状況に変化があったら知らせるようにとの指示をした。相馬が第一発見時に受けた報告では、太郎のズボンの前が開いていたことや眼鏡が飛んでいたことは報告されなかった。相馬は、小宮が斎藤に対して報告したと聞いたので、自分からは報告はしなかった。

3  午前〇時二〇分ころ、長谷川が客室ヘキーを置いたままオートロックドアを閉めてしまったとしてフロントヘキーを借りに来た際、小宮に対し、本館五階の廊下の隅に男性が座っている旨伝えた。小宮が行って見ると、太郎が一五六七号室と洗面所の間の前の廊下に両足を広げて投げ出した格好で手を両足の太股辺りに置いて座っていた。太郎は浴衣の下にズボン下を履き裸足であった。ルームキーや眼鏡は付近になかった。小宮は、太郎が酔いが醒め切らない状態で本件客室から出たが自室が分らなくなって座り込んでいるのだと考え、太郎に「お客様どうしましたか」「お客様の部屋はこちらじゃないから」と声を掛け、「ではお部屋に帰りましょう」と言った。これに対し、太郎は何も答えなかったが、小宮が「大丈夫ですか。立てますか」と呼び掛けたところ、太郎は「大丈夫」と言った。太郎は、目を開けている状態で、自力で立ち上がり、立ち上がった後少しよろめいたので、小宮は、肩を貸して約二〇メートル離れた本件客室へ一緒に歩いて行き、真ん中のベッドへ寝かせ、毛布を掛けた。本件客室の室内入口付近には糞のついたパンツが脱ぎ置かれ、床、太郎の浴衣の裾、ベッドのシーツには糞の染みが付着していた。小宮は、相馬に内線電話で連絡したところ、相馬が本館に来たので、小宮は、相馬に対し、客が廊下に座っているとの連絡を受けたので行って見ると太郎が廊下に座っていた、声を掛けたら大丈夫と言って自分で立ち上がろうとしてちょっとよろけたので肩を貸して本件客室に連れ戻した、客室内は脱糞があり汚れている旨報告した。

4  午前〇時三〇分ころ、警備員の山本が本件客室内に入り、太郎の様子を見たところ、ベッドのシーツと毛布が床に落ち、太郎は床に腰を下ろしてライティングデスクの下方を向いて捜し物をしているような格好をしていた。山本は「早く寝て下さい」と声を掛けた。

その後、午前〇時四〇分ころ、相馬がボイラー係の滝川と二人で本件客室へ行こうとしたところ、たまたま山本と出会い、山本から、太郎が床に腰を下ろして捜し物をしている様子だったので部屋の外から休んで下さいと声を掛けたところ、「わかった、わかった」という返答があった旨報告を受けた。

相馬が一人で本件客室に入って見ると、入口に糞の付いた下着があり、絨毯にも小さな染みが付着していた。太郎は真ん中のベッドの脇の床に毛布を敷いて下着姿で入口に背を向けて寝ている状況であった。相馬は、汚れた下着をビニール袋に入れ、本館フロントに行き、小宮に対し、何かあれば直ぐ連絡するように指示した。相馬は、それから午前六時三〇分に連絡があるまで、太郎のことについて報告も指示もしなかった。

5  午前二時ころ及び午前四時ころ、山本又は長嶺が定期巡回の際に本件客室のドアを開けて室内を見たところ、太郎は下着姿で毛布を掛けず床に仰向けで寝ていた。

6  午前六時三〇分ころ、長嶺が定期巡回の際に本件客室のドアを開けて室内を見たところ、太郎が口から嘔吐物を流している状態であった。当直長斎藤と相馬が報告を受けて太郎の様子を見ると、身体が震えて呼吸が乱れ、咳をして、口の回りに血や嘔吐物が付着し、声を掛けても応答がなかった。午前六時五〇分斎藤が救急車を要請した。

相馬は、太郎の手を握って声を掛けたが全く返答がなかったので、脚を毛布でくるんで暖め、小宮に太郎の職場と自宅に連絡するよう指示した。

7  太郎は、救急隊により午前七時一三分本件ホテルを運び出され、東京女子医大病院に午前七時一六分に到着したが、午前八時二六分の時点で開頭手術の適応がないと診断され、意識不明のまま翌一一月二八日午後二時四分に死亡した。東京女子医大病院の最終診断は、「脳挫傷、外傷性(?)くも膜下出血、頭蓋骨骨折」であった。解剖の結果、直接死因は脳挫傷、脳挫傷と関連するその他の所見として、後頭部やや右側の鶏卵大の紫赤色皮膚変色巣に一致し、人字縫合の離開を伴い、後頭骨の中央よりやや右で大後頭孔縁から右頭頂骨を通り右側頭骨に至る骨折(以下「後頭骨の骨折」という。)、約一〇〇ミリリットルの急性硬膜下出血を伴い、左に高度な両側前頭葉及び側頭葉先端の脳挫傷、大脳の軽度の腫脹、橋脳の軽度な二次的点状出血、随伴性の瀰漫性くも膜下出血等が診断された。

また、死体検案時の頭部・顔面の所見として、右前頭部に一二×八センチメートル大の赤紫変色、両側鼻根部(眼鏡のパッド下)に黒色の米粒大〜半米粒大の表皮剥脱、右頬部に4×4.5センチメートル大の淡赤紫変色、その直下に1.8×0.3センチメートル大の横走する黒色表皮剥脱、鼻翼部に表皮剥脱を伴う4.5×2センチメートル大の赤紫変色、右口角に小豆大の表皮剥脱を伴う赤紫変色、右上顎から右口角にかけて約0.5センチメートル幅の帯状の表皮剥脱、右下顎角付近から右口角にかけて0.4センチメートル幅の帯状の表皮剥脱、下口唇の下方に約一センチメートル幅の表皮剥脱兼赤紫変色があった。

また、解剖時の血液中のエタノールは陰性、同アセトンは一ミリリットル当たり3.3ミューグラムであった。

8  脳挫傷患者か泥酔により意識障害を生じた者かの判断は、対象者が話が出来る場合は飲んだ酒量を尋ねる、瞳孔の大きさを調べる、手足の麻痺の有無を尋ねる、口臭を嗅ぐ、血中アルコール濃度を調べる、胃内容検査をする等の方法による。泥酔による意識障害と区別される脳挫傷に特有の瞳孔の状態として、泥酔による意識障害の場合には瞳孔が縮小するのに対し、脳挫傷の場合には瞳孔が開大したり左右の大きさが異なっていたりするという特徴がある。

外傷性脳挫傷患者に対する一般的治療方法としては、静脈のルートを確保して急激な病状の変化に対処できる状態にし、酸素を投入して瞳孔や麻痺等の神経症状を経過観察して、瞳孔の左右の大きさが異なったり、麻痺が生じる等の脳圧上昇の兆候が生じた場合には、脳浮腫治療剤を投与したり、開頭手術をして血腫を取り除いたり骨を一時的に外す手術を行う方法がある。

9  太郎は、昭和一〇年五月二〇日生れで、昭和三三年三月に長崎大学商業短期大学部(夜間)を卒業し、同年七月一日から長崎県大村市役所に勤務し、平成四年一〇月一日から同市教育委員会教育次長の役職にあった。

太郎は、同年一一月二六日から仕事のために一泊二日の滞在予定で東京に出張していた。太郎の教育委員会教育次長の前の役職は、大村市競艇事業部長であったところ、同年夏ころから、同市競艇事業部発注の公共工事に絡み、市長が工事を請け負った指名業者と台湾旅行をした等の疑惑が市議会で取り上げられ、新聞にも報道されるなどしていた。

太郎の平成三年の年収は九五六万四五一五円であり、大村市職員は六〇歳の定年に達した日以後における最初の三月末日に退職すると定められている。

太郎の普段の酒量は、一週間のうち四日程度、ビールであれば大ビン一本、日本酒であれば1〜1.5合の晩酌をするというものであった。

太郎は、平成四年一一月一六日〜同月一八日大村市立病院において人間ドック検査を受け、胃粘膜下腫瘍の疑いとB型肝炎キャリアーの疑いの診断がされた。

二  争点1(安全配慮義務の内容)について

1  ホテル営業を営む者は、宿泊客の健康状態について、伝染性の疾病にかかっていると明らかに認められる場合以外は宿泊を拒めないのであり(旅館業法五条)、人はいつどんな事故や病気で自己の意思を的確に他人に伝えることができない状態に陥るか予測がつかないのであるから、そのような不測の事態の発生があり得ることを当然の前提として人を宿泊させる営業を営む以上、その宿泊契約には、宿泊客がそのチェックインからチェックアウトまでの時間、当該宿泊施設において事故や病気により自己の意思を的確に伝えることができない状態に陥った場合には、客観的に判断して本人の生命身体の危険の増悪を回避抑制するために最も適切と考えられる措置を講ずることを宿泊施設側に委ねる合意が含まれているもの、換言すれば、ホテル営業を営む者は、宿泊契約上、宿泊客に対し、右のような安全配慮義務を負っているものと解するのが相当である。したがって、ホテル営業を営む者は、宿泊客が宿泊施設において事故や急病により医師等の医療専門家の診断を要すると予想し、又は、予想すべき状況にある場合には、明らかに本人の反対の意思が認められない限り、医師の往診を依頼するとか、救急車により救急病院への搬送を要請するとか、速やかに宿泊客をして医師等の医療専門家の診断を受けさせる措置を講ずべき義務があると解すべきである。

2  被告は、宿泊契約に基づく安全配慮義務は宿泊施設利用の際に必要とされる人的物的諸条件の不備により危険が利用者に及んだ場合に問題となり、本件は太郎が倒れた原因は物的設備上の不備ではなく、宿泊施設利用の際に必要とされる人的物的諸条件の不備により危険が利用者に及んだ場合には当たらないから、宿泊契約に基づく安全配慮義務の問題は生じない旨主張する。

しかし、前述のような宿泊契約上の安全配慮義務は、人の生命身体には不測の事態の発生があり得ることを当然の前提として、宿泊客を一定期間宿泊施設内で過ごさせる契約に含まれる暗黙の合意を根拠としているものであるから、宿泊客の事故や急病の原因自体が当該宿泊施設の人的物的諸条件の不備による危険を原因とするものでなくても、宿泊客の身柄が宿泊施設にあって、事実上当該宿泊施設の関係者以外には適切な救護や助言を行う者がいないという状況にある以上、宿泊客に事故や急病による生命身体の危険が生じたときにどのように対処すべきかということは、右安全配慮義務の問題となるというべきである。

3  また、被告は、最高裁昭和五八年五月二七日判決を引用し、安全配慮義務は、業務の遂行が安全にされるように業務管理者として予測し得る危険を排除し得るに足りる人的物的諸条件を整えることに尽き、他の被用者が業務上必要な注意義務を怠らないようにして危険発生を防止すべき義務までを含むものではなく、履行補助者が通常の注意義務を怠った場合には安全配慮義務は負わないとし、仮に第一発見時又は第二発見時に小宮らに通常の注意義務違反があったとしても、被告は責任を負わない旨主張する。

しかしながら、右最高裁判決は、自衛隊員を自衛隊車両に公務の遂行として乗車させる場合に、その車両の運転者において道路交通法その他の法令に基づいて当然に負うべきものとされる通常の注意義務は、判例(最高裁昭和五〇年二月二五日判決・民集二九巻二号一四三頁)にいう安全配慮義務の内容に含まれないことを判示したものであって、本件の事案に適切でない。すなわち、本件においては、ホテル営業を営む被告及びその履行補助者たる被告の従業員(派遣社員を含む。)において宿泊客である太郎に対しいかなる内容の注意義務を負っていたかということが問題であり、ここで問題になる宿泊契約上の安全配慮義務は、前示のとおり宿泊客を一定期間宿泊施設内で過ごさせる契約に含まれる暗黙の合意を根拠とするものであるから、その義務の内容を前示のとおり解することは、右判例に抵触するものではない。

三  争点2(第一発見時、太郎について医療専門家の判断を必要とすると予見し得る状況があったといえるか)について

1  前示一2で認定したとおり、第一発見時においては、太郎が第一発見場所の陶製のタイル張りの床に横向きに倒れていて、右目の下に小さな擦過傷があり、うっすらと血が滲んでいたとはいえ、それ以外に目立った外傷や出血はなく、その傷も血が滲んだ程度で手当てが必要と判断されるものではなかったこと、小宮が「大丈夫ですか」と聞くと、太郎は目をパチパチさせて「うん」「大丈夫だ」と答えていたこと、太郎は一人で起き上がれない状態で、酒の臭いが強くしたこと、小宮が長嶺を呼びに行き、一緒に戻って来て再度「大丈夫ですか」と呼び掛けたときも、太郎が「大丈夫」と答えていたことを総合すると、被告の従業員において、太郎は泥酔してトイレで寝ていたのだと判断し、太郎の身体状況につき医療専門家による診察を必要とする状況があるとまでは予見しなかったとしても、やむを得ない状況にあったものと認めるのが相当である。

2  原告らは、太郎が堅い床の上に倒れ、眼鏡とルームキーが体から離れて落ちた状態であり、ズボンのチャックを開けたまま性器を露出した状態であったこと、後頭部に瘤があり、右目の下に傷があったこと、ワイシャツの袖に血が付着していたこと等の状況から判断して、小宮や長嶺は、太郎が何らかの原因により床に倒れた際に頭を打った可能性があることに気付くべきであった旨主張する。しかしながら、太郎は前示認定のとおり男性用便器が並んでいる壁とほぼ平行して横向きに倒れている状況で、酒の臭いが強くしたことから、酔って眠り込んだ姿勢であると考えたとしても不合理ではなく、眼鏡やルームキーが体から離れていたといっても三〇センチメートル程度であり、倒れた際の衝撃で離れ飛んだと推定するのが当然というほどの状況ではないこと、ズボンのチャックを開けて性器を露出させていた点についても、酔余トイレでそのような状態で寝込むことも考えられないわけではないこと、後頭部の瘤は、出血等もなく頭髪に覆われていて、医師等の専門家が特に注意して観察するのでもなければ、これに気付くのは困難であること、右目の下の傷は血がうっすらと滲んでいた程度で手当が必要と判断されるような傷ではなかったこと、ワイシャツの血の染みはいずれも小さな薄い染みであり、右目の下の傷の血が付着したものとも考えられることから、これらのすべての状況を総合しても、太郎が倒れて頭部又は他の身体の部位を強度に打撲し、直ちに医療専門家による診察を必要とする状態にあると判断すべき状況であったと考えることは困難である。

また、原告らは、仮に酒酔いであっても、第一発見時の状況の下では医師等の専門家の診断及び治療が必要な場合であることが予見できた旨主張するが、前示のとおり、太郎が呼び掛けに応じて目を開け、「大丈夫」と数回応答していた状況の下では、たとえ、医学的にはそれが意識障害に基づく異常行動であったとしても、これを意識障害による応答と認識し得ない宿泊施設側において、右本人の応答にもかかわらず、直ちに医療専門家の診察が必要な状態であると判断し、措置する義務があったとまで認めることはできない。

四  争点3(第二発見時、太郎について医療専門家の判断を要すると予見し得る状況があったといえるか)について

1 前示一3で認定したとおり、太郎は、第一発見時において、呼び掛けに対し「大丈夫」と応答するものの、自力で歩行することができず、小宮と長嶺が二人がかりで本件客室に運び込み、ワイシャツとズボン姿のままベッドに寝かせたところ、第二発見時においては、ズボン下を履き浴衣姿であって、時間的にも第一発見時から四時間近く経過し、酒酔いであればその影響が次第に緩和されていると判断される状況があったにもかかわらず、脱糞して汚れたパンツが室内の入口近くに脱ぎ置かれ、第一発見場所のトイレから見て本件客室とは反対方向の廊下に裸足で座り込んでいたこと、小宮がいろいろ話し掛けたにもかかわらず、太郎はただ「大丈夫」としか言わなかった状況を総合すると、太郎が自力で立ち上がり、少しよろめいたので小宮が肩を貸して約二〇メートル離れた本件客室へ歩いて戻ることができた点を考慮に入れても、この時点においては、太郎の異常行動について、単なる酒酔いの影響の域を越え、医師等医療専門家による診察を必要とする状態にあると判断すべき状況にあったと認めるのが相当である。

しかるに、小宮は、前示のとおり、第一発見時の太郎の状態を現認し、それから約四時間経過した後であるにもかかわらず、太郎が脱糞したパンツを室内に脱ぎ置いて本件客室と反対方向の廊下に裸足で座り込み、ただ「大丈夫」としか言わない異常な状態を見て、太郎が医療専門家の診察を必要とする状態にあると予見し得べき状況があったのに、救急車を要請する等医療専門家の診断を仰ぐ措置を採らなかった。また、相馬は、前示一2、3で認定したとおり、第一発見時に小宮から内線電話でその際の状況の報告を受け、さらに、第二発見時に小宮から太郎が廊下に座っていたこと、客室内が脱糞で汚れていた旨の報告を受け、午前〇時四〇分ころには山本から太郎の奇異な行動の報告を受け、その直後に本件客室へ行って糞の付いた下着が放置されたまま太郎がベッドの脇の床に寝ている状況を見たのであるから、これらの太郎の異常な行動を総合すれば、太郎が医療専門家の診察を必要とする状態にあると予見し得たものと認められるのにかかわらず、救急車を要請する等医療専門家の診断を仰ぐ措置を採らなかった。

2 この点について、被告は、太郎は、自分で浴衣に着替えていたこと、自力で立ち上がったこと、肩を借りて自分で約二〇メートルを歩くことができたこと、小宮の呼び掛けに「大丈夫」と答えていたこと、脱糞があったこと等は酒酔いによる意識障害によっても見られる症状であることを理由に、太郎は医療専門家による診察が必要な状況であると予想すべき状況ではなかった旨主張する。

しかし、第一発見時における太郎の身体状態は、被告の従業員において本件客室のドアをロックせずに時々様子を見ようと考えるような一抹の不安が残るものであったと認められるものである上、浴衣に着替えているとはいえ、第一発見時から四時間近く経過したにもかかわらず、脱糞で汚れた下着を室内に放置して自室と反対方向の廊下に裸足で座り込み、「大丈夫」という以外の自発的な発言がないという異常な行動を示していることは、単なる酒酔い状態の持続とは見られるものでないし、酒酔いと見られたにせよ異常な身体状態を示していると判断すべきであったということができ、この時点で通常の判断能力を有する者であれば、太郎は医療専門家による診察を必要とする状態にあると予見し得べき身体症状を示していたものと認められる。

また、乙二三号証(防衛医科大学校病院救急部長教授岡田芳明の意見書)には、第二発見時に小宮が太郎の目が開いていたか聞かれて「目は開いていたと思いますが」と供述していること、当初の脳の打撲による意識障害から回復し脳浮腫による意識障害が始まる前の時点で比較的意識清明に近い状態が訪れることがあることから、第二発見時は第一発見時より太郎の意識障害の程度が改善されており、これは酒酔いの時間経過による意識障害の程度の改善と酷似しているから、医学的素養のない一般人に救急車の要請を求めるのは酷である旨の記述がある。しかし、小宮の供述は、太郎が自発的に目を開いていたか、呼び掛けに対し反射的に目を開いたものか暖昧で、この点は不明であること大村市教育次長という社会的地位のある太郎が脱糞で汚れた下着をホテルの客室内に放置して、体が汚れた状態のまま裸足で自室と反対の方向の廊下に座り込む行動をしていること、証人山口研一郎(以下「証人山口」という。)は右行動は病識がない状態であって意識障害の進行を示している旨証言していることに照らして、右乙二二号証の記述は採用できない。

五  争点4(第二発見時に直ちに医師の診断・治療を受けた場合の太郎の延命可能性及び社会復帰可能性の有無並びに余命期間)について

1  延命可能性の有無

前示一2のとおり太郎が第一発見時トイレの床でズボンの前を開けた状態で倒れていたこと、太郎には、前示一7のとおり後頭部のやや右に鶏卵大の紫赤色皮膚変色巣、後頭骨の骨折、前頭葉の約一〇〇ミリリットルの急性硬膜下出血、両側前頭葉及び側頭葉(以下「前頭葉等」という。)の脳挫傷があったこと、前示一5で認定したとおり午前二時ころ巡回の際に太郎が下着姿で床に寝ていたこと、前示一6で認定したとおり午前六時三〇分ころには太郎は口から嘔吐物を流し呼吸が乱れ全身が震えて意識のない状態であったこと、甲二〇号証(山口研一郎の意見書)、乙一三号証(太郎の解剖執刀医木村寿子の意見を録取した報告書)、証人山口の証言等を総合すると、太郎は、午後八時三〇分ころトイレで排尿した直後に脳貧血を起こして倒れ、その際後頭部をトイレの床で打撲したために後頭骨の骨折をし、後頭部打撲の反動で前頭葉等に脳挫傷と硬膜下出血が生じて、その後、前頭葉等の脳浮腫と硬膜下出血によって除々に脳圧迫が進行し、午前二時以降に脳ヘルニアに陥り、午前六時三〇分ころの定期巡回の際に脳ヘルニアを起こした状態を発見されたものと認められる。そして、硬膜下出血の量が一〇〇ミリグラムであること、証人山口がこの量は外科手術をして取り除くか否か判断する基準でありさほど多量とはいえない旨述べていることからすると、脳ヘルニアは主に前頭葉等の脳浮腫により生じたものと認められる。

そして、第二発見時の太郎の状態としては、目が開いていた状態であったか又は呼び掛けに対し目を開く状態であったこと、呼び掛けに対し「大丈夫」と言ったこと、肩を借りて約二〇メートル離れた本件客室まで歩いていたこと、第一発見時からの経過時間が約四時間であることを総合すると、未だ脳ヘルニアを生じてはいなかったものと認められる。そして、証人山口は、脳挫傷の予後を決する大きな要因は脳ヘルニアが起こる前に脳圧を低下させる治療を開始できたか否かであると証言し、太郎が第二発見時までに有効な治療を受けていれば、社会復帰は三〇パーセントの確率で、家庭内復帰は三〇〜四〇パーセントの確率でできていたであろう旨証言していること、前示一8のとおりであれば、第二発見時に救急車を要請し医師が太郎を診察すれば脳挫傷による意識障害と診断され、かつ、脳圧を低下させる治療を受けたものと考えられることから、第二発見時に被告の従業員らが救急車を要請していれば、太郎は延命していた蓋然性が高いものと認めることができる。したがって、前示四1の被告の従業員の注意義務違反に基づく被告の安全配慮義務違反の債務不履行と太郎の死亡との間には相当因果関係がある。

この点、甲九号証では急性硬膜下血腫について、予後は悪く死亡率五〇〜七〇パーセントである旨の記述があるが、同号証には、早期に発見した場合にはその予後は一次的脳損傷の程度とそれに対する治療の適否により左右されると記載されていること、急性硬膜下血腫の予後が悪いのはそのうち八〇〜九〇パーセントに高度の一次的脳損傷が存在することが原因であると記載されていること、本件では受傷直後と推定される第一発見時に呼び掛けに応じて目を開けたり、呼び掛けに応答したりしていて意識障害の程度が少なくともグラスゴー・コーマ・スケールやジャパン・コーマ・スケールの意識障害の程度を図る基準では少なくともいずれも中程度以上であり、一次的脳損傷の程度は高度ではなかったと考えられることから、同号証をもって太郎の延命の蓋然性が低いとすることはできない。

また、乙一二号証では、受傷から手術までの時間が七二時間以内である急性硬膜下血腫の死亡率を63.9パーセントとする記述や、高度の脳挫傷が併存する硬膜下血腫(以下「C型」という。)で、かつ、頭蓋骨骨折がある場合の死亡率を71.5パーセント、C型に至らない軽度の脳挫傷を伴うか脳挫傷がない硬膜下血腫(以下「S型」という。)で骨折がある場合の死亡率を61.5パーセント、C型で、かつ、受傷から手術までの時間が二四時間以内である者の死亡率を七四パーセントとする記述や、C型の予後について予後の段階を示す基準であるグラスゴー・アウトカム・スケールの一段階(通常の生活に復帰する者)1.4パーセント、二段階(障害は残るが自活可能な者)9.8パーセント、三段階(意識はあるが自活不能)8.3パーセント、四段階(反応もなく発語もない)9.8パーセント、五段階(死亡)七一パーセントとの記述があるが、同号証が昭和五七年の文献であること、C型は高度の脳挫傷が併存する場合を示したものであるところ、前示のとおり本件の一時的脳損傷の程度は高度ではなかったと考えられること、手術までの時間が短い場合の死亡率が高いことは意識障害が急速に進行するような高度の脳挫傷であるということからみて当然で、本件は意識障害の進行としては急速でなかったと考えられること、甲二二号証は、平成四年の文献であるが、局所性の急性硬膜下血腫の転帰を死亡率を四五パーセントとしていることと対比して、乙一二号証の前記記述をもって太郎の延命の蓋然性が低いとすることはできない。

2  社会復帰の可能性について

前掲甲二〇号証には、打撃の程度と受傷から治療までの経過時間が予後の要因であるとの記述があるところ、太郎は前示のとおり人字縫合が離開する程度の骨折を後頭部に受けていることから、打撲の程度としては軽微とはいえず、それなりに強い衝撃を受けたと認められ、前示認定のとおり一次的脳損傷の程度は高度ではないと認められるにしても、軽微であるとも断定できず、一次的脳損傷により生命維持に必要な機能以上の何らかの機能に対し回復不能な損傷を受けていた可能性は否定できない。さらに、証人山口は、第二発見時の太郎が一度はベッドに入っていたにもかかわらず、浴衣姿で脱糞を付けたまま廊下に座るという異常な行動をしていることから、第一発見時より意識障害の程度が進行していると見られる旨証言していること、第一発見時が太郎の受傷直後であると仮定しても、この時から第二発見時まで約四時間近く経過していることを考慮すると、その社会復帰に高度の蓋然性があったものとは認めるに足りない。また、証人山口は、社会復帰の可能性について三〇パーセントと証言しているが、一方でその社会復帰というのは自分にとって生活上必要なことがほぼできることであって、家族の介護なしに生活できるような手足の麻痺や言語障害が残っていないことである旨証言していることに照らすと、右証言をもって太郎が本件事故当時の大村市教育次長という役職に復帰できる蓋然性があるとは認めることはできない。また、それ以外の仕事であっても、前示の衝撃の程度及び受傷との時間的間隔、意識障害の進行等に照らすと、太郎が就業可能な程度に回復できたか不明であるといわざるを得ない。

六  争点5(太郎が飲酒したことについて損害に斟酌すべき過失があるか)について

被告は、太郎の脳挫傷は同人が体調不良であるにもかかわらず飲酒したことによるものであり、太郎としては体調不良である場合には飲酒を控えるべき義務があるのに飲酒して転倒したものであるから、右結果には同人の過失に起因するところが大きい旨主張する。しかし、太郎が飲んだのはビール中ジョッキ一杯及び日本酒1.8合であり、前示一8で認定した太郎の普段の酒量に照らして特別に多量であったとは認められず、また、食事を採りながら飲酒したものであること、太郎には肝炎等の持病はあったが脳貧血を起こしやすいような持病があったとは認めるに足りる証拠がないから、飲酒が転倒を招くことについて太郎に予見可能性があったとは認められない。したがって、太郎が飲酒したことをもって過失相殺すべき過失があるとは認め難い。

七  争点6(損害額)について

前示のとおり、第二発見時に太郎が医師の治療を受けていても就業可能な程度に回復し得たとの蓋然性は認めるに至らないから、原告ら主張の逸失利益損害は認められない。慰謝料額については、証人山口が延命可能性は三〇〜四〇パーセント、社会復帰の可能性は三〇パーセントである旨証言していることをそれぞれ斟酌し、二四〇〇万円と認めるのが相当である。

そして、本件事案の内容、認容額等を考慮すると、被告の債務不履行と相当因果関係にある弁護士費用は右損害額の一割と認めるのが相当である。

八  まとめ

以上の次第であるから、原告花子につき一三二〇万円、原告一郎及び原告二郎につきそれぞれ六六〇万円並びにこれらに対する平成六年二月一九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で原告らの請求には理由がある。

(裁判長裁判官石川善則 裁判官小野洋一 裁判官仙田由紀子)

別紙グランドヒル市ヶ谷本館宿泊図〈省略〉

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